歴史

大谷吉継、僧侶説

毛利家臣佐々部一斎(1575-1657)が書いたとされる「一斎留書」に興味深い一文を見つけた。 大谷方ハ慶松坊と云時之覚も有之由候得共もうもくにて右左をも不被存也 大谷で盲目とあるので大谷吉継を指していると考えられるが、問題は慶松「坊」という書き方であ…

並河志摩守

『平成 肥後国誌』の載せる禅定寺の刻銘によると、寛永7年7月25日に並河志摩守宗為が亡くなっている。「安永三年小浜藩家臣由緒書」では、宗為の父は並河兵庫介宗隆。兵庫介はのち掃部介と改める。『丹波笑路城発掘調査報告』によると、並河因幡守宗隆、兵庫…

蜂屋右京進と蜂屋市兵衛

蜂屋頼隆の没後、大谷吉継に仕えたと考えられる、蜂屋姓の家臣として、蜂屋右京進と蜂屋市兵衛の名前が見える。蜂屋右京進の実名は書状より隆長と確認できる。蜂屋頼隆からの一字拝領であろう。元の姓は稲壁か。蜂屋市兵衛の実名は書状に見つけることができ…

『炎の仁将 大谷吉継のすべて』未掲載文書

各種調査を行なっている中、『炎の仁将 大谷吉継のすべて』(103通掲載)に載っていない書状を見つけたので、情報をまとめておく。 (文禄三年)十月朔日 直江山城守(兼続)宛 『温泉草津資料』第一巻収録。『大谷吉継のすべて』p283に紹介あり。 (慶長五…

歌仙兼定

三斎が忠利の側近をのべ36人切ったことから付けられたという「歌仙兼定」の由来は『肥後金工大鑑』によると、昭和9年刊行の『肥後刀装録』に以下のようにあるという。 忠利公、肥後国施政上ニ関シテ、老公ノ意ニ適セズ、其ノ側近ノ奸臣ヲ八代城ニ召致シ、悉…

嘘だらけ、池田セン

池田せん、とひらがなで書かれることが多いが、今は後述の史料に従う。池田恒興の娘で、森長可の妻となった女性が池田センで、鉄砲隊を率いて戦ったと、検索すれば山のように引っかかる。読むと、根拠となっているのは『美濃国諸旧記』の「岐阜城を取り囲み…

その後の天草長岡家

『天草史談』収録の「細川家同族天草長岡家系譜(上)(下)」に細川興秋の子孫の系図が載っており、末裔の長岡養四郎興敏氏は現存とあるが、これは記事の載った昭和12年時点の情報である。池田幸枝「(第三部)細川興秋公、最後の末裔 長岡養四郎様」(『石…

細川家の名宝

永青文庫の iPad アプリ - 津々堂のたわごと日録を読んで存在を思い出した細川家の名宝をiPadにインストールしてみた。拡大を保持できない?とか、年表から飛べない?とか気になる点はあるが、これで書状が読めるようになったら大変便利だと思うので、早く更…

NHK大河ドラマ誘致推進協議会

ガラシャ・光秀・幽斎・忠興の大河ドラマ誘致を推進しているサイトだが、できたばかりのためか、あらが目立つ。 ttp://www.taiga-dorama.com/ 家系図 ttp://www.taiga-dorama.com/category/1553645.html 「斎」と「斉」は別字なので、幽斎に統一を。 忠秋は…

並河志摩守

実名は氏之や氏則とされているが、 (前略) 丹波国桑田群並河志摩守源氏之 朝臣宗為公(後略) とある銘の誤読によるものと考えられる。並河/志摩守/源/氏之ではなく、並河/志摩守/源氏之朝臣/宗為であり、実名は宗為が正しいのであろう。小浜藩士並…

黒田長興書状

「今井書店古書目録」第13号に載っている黒田長興書状は何年のものか検討した。 吉田斎助所迄、去月十一日之御状拝見、殊更鮭之子籠三尺被送る下、御心入之段、不浅存候、修理大夫殿・式部殿道中御無事ニ、去五日御当着候間、可御心安候、貴様去年より煩故、…

死せるガラシャの二子

『記憶の歴史学』を読むと、「関ヶ原御合戦双紙」と「言経卿記」にガラシャと共に息子と娘が死んだことが書かれているそうだが、『愛知県史』に目を通していたら、(慶長5年)8月22日付け秋田実季宛佐々正孝書状の中に「越中殿妻子ヲさしころし」とあった。

比良太郎兵衛

松江藩士の中に本国・生国共に近江という比良太郎兵衛なる人物がいたが、これは霜の兄弟である比良内蔵助の子、比良太郎兵衛と同一人物であろうか。検索すると、比良太郎兵衛は堀秀重の女婿であり、「堀家大系図」には実名だか号だか分からないが「玄賀」と…

松江藩列士録

実は2004年から2006年にかけて活字化されていたと現地に行って初めて知った。ただし活字化されているのは「列士録」だけで、「列士録 断絶帳」「列士録 新番組抜取帳」は、まだのようである。 松江藩は松平直政を祖としているためか、全体的に過去のことがあ…

続 加藤清正「妻子」の研究

ブイツーソリューションのサイトに詳細が載っていた。 ttp://www.v2-solution.com/booklist/978-4-434-16325-8.html

二男、加藤清正

「歿後400年 加藤清正の時代」で、清正を清忠の二男とする系図を載せた「金城温古録」が展示されていたが、清正が二男であることは「清正記」の時点ですでに書かれている。しかし長男は何者なのか、「清正記」は触れていない(「一女、二男、…」のように書く…

細川家家臣略系譜

知らぬ間にPDFが公開されていた。 ttp://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/handle/2298/13950

保科正之の母方

後日詳しく調べたい。 神尾栄加――――――――+―政秀――――――――+―某 伊予 | 嘉右衛門 | | +―某 | 左内 六左衛門 | +―女子――――――――――某 | 竹村助兵衛次俊妻 半右衛門 | +―女子――――――――――保科正之 | 浄光院 | +―政景――――――――――某 才兵衛 才兵衛

加藤清正の庶子、貴田玄蕃

其先貴田孫兵衛正負、高麗攻の時討死、其子玄蕃正勝(実ハ加藤清政之庶子也清正の命により孫兵衛の家を継ぐ) 加藤長右衛門直一と同じで清正との親子関係が年齢的に厳しい。

加藤清正の庶子、直一

加藤長右衛門 直一 瑞龍院様(前田利長)、越中国守山御在城之節、天正十七丑年、御知行二百五拾石被下置、被召出、於金沢表、頭役御算用場奉行被仰付、相勤申候、実者加藤肥後守清正殿、妾腹之三男ニ御座候 寛永十五年寅年、病死仕候 前田利長に仕えたのが…

米田是季の母方の祖父母

是季母雲仙庵か母ハ真寿と申候而、其比之一条様御妹にて准后様の御姪ニ而御座候由 『綿考輯録』によると是季の祖母、真寿という女性は一条氏の妹で、准后の姪であるという。一条房通が准后であるから、房通の姪であろうか。また、津々堂さんのブログ(霜女の…

その後の加藤百助

加藤清正の養子となり、のち実家に戻った加藤百助のその後が明らかになった。 百助行跡荒ク、清正是ヲ制セン為ニ家盛方ヘ戻ス、然ルニ因州於若桜家盛家臣神崎清兵衛ト不計喧[口花]シテ打果死年廿六 何と、喧嘩で命を落としていた。また没年は26歳とあるが、…

続・松岡九郎次郎

信長に馬廻として仕え、本能寺の変後は秀吉に仕えた松岡九郎次郎。『織田信長家臣人名辞典』にも実名は載っていないが、実名は「高光」ではないかという推測を以前書いた。 http://d.hatena.ne.jp/muxia/20060604#p2 あれから5年。ようやく池田家文庫の奉公…

武田勝頼朱印状

テレビ欄を見たら本日の開運!なんでも鑑定団に「信玄の書」とあったので、録画しながら見ていたら出張鑑定で登場した。信玄の書として家に代々伝わっていたそうだが、天正五年とあることから少なくとも信玄のものではないと依頼人も言っていた。鑑定の結果…

松井康之発給文書目録 暫定版

出典の略字は 久:久我家文書、綿:綿考輯録、松:松井家三代、調:松井文庫所蔵古文書調査報告書、竹:竹田家資料調査報告書、関:関ヶ原合戦と九州の武将たち、大:大分県史料 『大分県史料』収録書状の年代は自分の推測であるが、移ってきた時期と興元出…

伊与局

先日の書き込みに対して、別人説のコメントを頂きましたので、御覧ください。あと、読み方も「いよ」が正しいようです。ただ、いとが宮中に仕えていたことは確からしいので、その辺を今後掘り下げていきたいと思います。

中院通勝と伊与局

女官の伊与局との不義で勅勘を蒙った中院通勝は天正8年6月18日、出奔して丹後の細川藤孝を頼った。さて、常識的に考えれば一方の伊与局も宮中に残ることは難しかったであろう。縁者などを頼って宮中を離れたものと推測される。伊与局はどこへ行ったのか? お…

織田信長家臣人名辞典 第2版 in/out

先日、私が確認したところ、新たに追加されたのは 青木次郎左衛門、青柳勘太郎、青山助一、赤川弥十郎、赤沢某、赤沢右近、赤林掃部介、秋山善右衛門尉、浅井吉兵衛、浅井盛家、飯田宅次、飯田半兵衛尉、飯河宮松、伊藤惣十郎、井上種次、岩吉勝、岩田正吉、…

織田信長家臣人名辞典 第2版

ttp://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b68263.html 10/15発売予定。15年分でどれだけ改訂されたか期待。

福富系図(続)

福富大膳の女婿、志水甲斐守と中坊美作守の詳細であるが、前者は尾張義直の従兄弟にあたる志水甲斐守忠政であろうことは分かった。問題は後者である。『寛政譜』を見る限り、該当しそうなのは中坊秀政の養嗣子、美作守時祐なのだが、妻は松平右衛門大夫正綱…