歌仙兼定

三斎が忠利の側近をのべ36人切ったことから付けられたという「歌仙兼定」の由来は『肥後金工大鑑』によると、昭和9年刊行の『肥後刀装録』に以下のようにあるという。

忠利公、肥後国施政上ニ関シテ、老公ノ意ニ適セズ、其ノ側近ノ奸臣ヲ八代城ニ召致シ、悉ク其ノ首ヲ刎ネラレ、其ノ数三十六人ニ及ビ則チ止ム、ソノ後、国政大イニ革マリ、仁恵領土ニ霑ヒタリト云フ。因ッテ三十六歌仙ニ做ヒ、此ノ号アリ。

さすがに事実とは考えにくい話のため、歌仙拵から誰かが創作したものか。