大谷吉継、僧侶説

毛利家臣佐々部一斎(1575-1657)が書いたとされる「一斎留書」に興味深い一文を見つけた。

大谷方ハ慶松坊と云時之覚も有之由候得共もうもくにて右左をも不被存也

大谷で盲目とあるので大谷吉継を指していると考えられるが、問題は慶松「坊」という書き方である。吉継の通称として「慶松」が挙げられるが、慶松坊となれば話は変わってくる。宮部善祥坊などのように、吉継も元々は慶松坊と称する僧だったと推測される。また天正三年(同六年と推定されているが)に、毛利方であった草刈氏のもとに大谷慶松が遣いをしたという話があるが、当時十代の吉継が遣わされたのは、慶松とあるように、まだ僧だったためではないだろうか。そして下間氏との縁戚関係(下間頼廉庶子頼亮の妻は吉継の妹という)も、僧の出というのが関係していると考えられる。