並河志摩守

『平成 肥後国誌』の載せる禅定寺の刻銘によると、寛永7年7月25日に並河志摩守宗為が亡くなっている。「安永三年小浜藩家臣由緒書」では、宗為の父は並河兵庫介宗隆。兵庫介はのち掃部介と改める。『丹波笑路城発掘調査報告』によると、並河因幡守宗隆、兵庫介(掃部介)易家の兄弟がおり、天正3年6月16日付で信長から朱印状をもらったとある。検索すると、その朱印状と思われるものが紹介されていた。
http://akira848.cocolog-nifty.com/nikki/2007/04/post_0d5d.html
丹波笑路城発掘調査報告』では兵庫介(掃部介)ではなく因幡守の実名が宗隆となっている。どちらが正しいのか、実名を記した史料を知らないので判断できない。
千葉一族のページでは、易家の子を志摩守とする系図が紹介されている。
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen/ichizoku7.htm
易家の名前は『明智軍記』に、子供の八郎と共にみえる。同書には易家は山崎の戦いで討死したとあるが、「安永三年小浜藩家臣由緒書」では、掃部介はその後も存命で、摂津で亡くなったとする。

「安永三年小浜藩家臣由緒書」によると、志摩守宗為の長男は、父と同様に加藤家に仕えた金右衛門、のち志摩。二男は小浜藩並河家の初代となる久左衛門宗久。二代目の志摩守の加藤家改易後の行方は諸説ある。『綿考輯録』は実名を元久とし、寛永10年7月21日に肥後で亡くなったとする。子孫は米村姓を称し、細川家に仕えた。一方、『南路志』や『土佐国群書類従』によると、実名は宗照。土佐の山内忠義に仕えて、寛文8年8月4日に亡くなり、その後、養嗣子の主税重康の代に乱心で知行を召し上げられたとある。

『要略 会津藩諸士系譜』に金右衛門の子孫がみえるが、略系譜しかないため、二代目志摩守の子孫であるか判別できない。いずれ現地で調査したい。

史料間の差異が複数見られるが、まずは現時点で分かっていることを並べてみた。