死せるガラシャの二子

『記憶の歴史学』を読むと、「関ヶ原御合戦双紙」と「言経卿記」にガラシャと共に息子と娘が死んだことが書かれているそうだが、『愛知県史』に目を通していたら、(慶長5年)8月22日付け秋田実季宛佐々正孝書状の中に「越中殿妻子ヲさしころし」とあった。