歴史

生きている日本の系譜

『週刊読売』の連載記事「生きている日本の系譜」の一覧。時代を感じる顔ぶれである。 塚原卜伝 1964.6.21 楠正成 1964.6.28 大岡越前守 1964.7.5 山中鹿之介 1964.7.12 幡随院長兵衛 1964.7.19 塙団右衛門 1964.7.26 竹中半兵衛 1964.8.2 後藤又兵衛 1964.8…

島弥九郎の後嗣

先日、島弥九郎の御子孫が『長宗我部』という本を出されたが、Amazonなどでも指摘がされているように、島弥九郎の没年と子供であるはずの五郎左衛門の生年がだいぶ離れている点について何の考察も無く、疑問の残る内容であった。どう考えても五郎左衛門は弥…

福富系図

『寛政譜』などを持っていないので、大膳の娘の嫁ぎ先が正しいか確認できない。またよく分からないのは、佐竹氏預かりとなった兵部・虎之助父子である。兵部はそのまま預かり先で亡くなるのだが、虎之助は赦免されて江戸に戻っている。『寛政譜』にはその後…

新発田藩士になった粟坂氏

松井家臣、粟坂平助守方の三男、養庵豊忠は医業をもって新発田藩に召し抱えられたという。 粟坂 山名 豊□…………………………………………守時――――――――――――――+ 小次郎 伊予介 一舟 | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――守国 | 弥次郎 | +――某 | 野田五…

天正十年六月、勝竜寺は誰の領地?

山崎で敗れた光秀が勝竜寺に逃げ込んだのは、勝竜寺が細川藤孝の領地だったから、と思っている人が時々いるようだが、 去程に、去年長岡兵部太輔・与一郎・頓五郎父子三人、度々忠節に付いて丹後国下され候。然る間、青竜寺の城上げ申され候。これに依つて、…

清正ゆかりの陣羽織、全国初確認 八代城主・加藤正方の遺品発見(続)

さて、加藤正方の妻は秋月種実の娘とあるが、長男の左内正直の妻は清正の娘であるという。正直の生年は不明だが、寛永20年(1643)没。正直の子、甚右衛門は寛永9年(1634)の生まれであり、正方は天正8年(1580)生まれであるから、正直は慶長年間の生まれであろ…

清正ゆかりの陣羽織、全国初確認 八代城主・加藤正方の遺品発見

正方に実子は無く、四人の養子がいたとあるのだが、浅野家の史料を見ると長男の左内は幕臣となり、二男は浅野家臣になったとある。長男は『寛政譜』にある左内正直のことであろう。今回の遺品は広島市在住の御子孫からとあるので、正方の二男の子孫と思われ…

黒田官兵衛の太刀拵、奇跡の発見「姫路で展示を」

ttp://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/0003107650.shtml 今度帰洛の義申候処、秀吉同心の由、悦喜此事に候。併馳走故候。弥宜様可入精段、偏頼入候。為其差越晴助太刀一腰、馬一疋遣之、委細安国寺可申候也。 十月廿一日 御 書 判 黒田官兵衛尉どのへ (黒田…

落合主膳と落合美作

落合主膳正重清は信長、秀吉、清正と仕え、関ヶ原では京極高知麾下で功を挙げて、秀康に仕えて一万石を領したという。『寛政譜』によると万治三年(1660)没とあるが、『南紀徳川史』を読むと大坂の陣の前に没し、子の美作守重長が継いだとある。どちらが正し…

吉田家を中心に

興長−古保だけ交差させないとどうにもならなかった。 吉田浄忠 ‖――+―――――――――浄勝 清原宣賢―+―吉田兼右―+―女子 | ‖―――――――――浄珍 | | | 松井広之―+―女子 ‖ +―女子 | | | ‖――――浄元――――――――浄友 ‖ | | +―康之――――――+―女子 ‖ ‖ ‖ | | | ‖ ‖…

前田先生と篠原まつはイトコ(母親が姉妹)

「室町学院高校生徒指導室!!」第12話で前田先生と篠原まつは母親が姉妹であるイトコという設定が明かされたが、では史実を振り返ってみよう。前田利家の母は法号から長齢院と称されている。出自は竹野氏というが詳細は不明。まつの母であるが、管見の限りで…

利休弟、今治に住む

福島正則に従って今治にやってきた宗味は名器を売り払い、そのまま住み着いたという。系図は一部推測。 千宗味――――――――――信賢――――――――+―某 宗易弟 次郎左衛門 | 弥右衛門 寛文九年 | 六月二日没 +―某―――――――――+ 妻 大祝安任女 八郎右衛門 | 貞享四年 …

スギハラの友達シノハラ

「室町学院高校生徒指導室!!」第9話から登場している杉原寧々の友達シノハラは芳春院のことだと第10話を読んでいるときにようやく思い至った。すぐ辿り着かなかったのは出自が諸説あったためだろう。知る限りでは三説。篠原氏説、高畠氏説、そして土方氏説で…

大塚又一郎

本能寺の変で討死した大塚又一郎は実名を正光といい、生駒親正の女婿であったという。又一郎の子、大塚采女正三正は生駒家に仕え、田辺城の戦いなどに参陣している。

野々村四郎右衛門と門奈助左衛門

『影武者徳川家康』そして『徳川家康(トクチョンカガン)』におけるキーポイントを『徳川実紀』から引用する。 又朝のほど霧深くして鉄炮の音烈しく聞えければ。御本陣の人々いづれもいさみすゝむで馬を乗廻しつつ。御陣もいまだ定らざるに野々村四郎右衛門…

三宅氏略系図(一部推測)

同名異人が存在するので養子に入った人物は赤字にしてみた。

稲津九郎兵衛

九郎兵衛の父は大膳頼久なる人物とされているが、『日向纂記』を読むと 重頼―――――+―重信―――――――重房 越前守 | 因幡守 又次郎 九郎兵衛 | +―●――――――+―重政 | 勝五郎 掃部助 | +―某 牛之助 となるようだ。また九郎兵衛は慶長2年に19歳というのが正しけ…

歴史秘話ヒストリア 九州に残る信長の墓

近畿・東海・北陸に点在している中、ぽつんと九州に一箇所あるのは、細川忠興が寛永十年に建てた供養塔であろう。現在は一中の運動場内にあるので、あまり気軽に見れなくなっているが。 (追記)八代市のページに写真が載っていた。 ttp://www.city.yatsushi…

小野木縫殿助

通称は清次郎。任官して縫殿助。実名は重次、重勝、公郷が見える。妻は島清興女。縫殿助の死後、甥の三丞は山内家に仕え、その子孫は前田家に仕えたという。縫殿助には朝鮮で討死した又六という弟がいたようなので、つじつまは合う。

益田家略系図

書状には正重とあったと記憶しているが今は史料に従う。跡目相続の際に知行が減らされるようであれば退転するよう蔵人は遺言していたが、果たして遺領七千石のうちまずは三千石しか与えられなかったことから正質は出奔し、その後は徳島藩に仕えた。 益田持正…

貴田家略系図

長太夫の実名は元辰のようだが、詳細な典拠が分からないため保留。 勝元―――――――正負―――――+―正勝――――――――+―某 右兵衞 孫兵衛 | 玄蕃 | 兵助 天正二十年 | 万治二年 | 慶安三年 討死か | 五月二十九日没 | 正月晦日没 | 享年八十六 | 享年三十八 | …

沼田面松斎祐光

初めは上野之介と称し、兄の三郎左衛門と共に細川藤孝に仕えていたという。三郎左衛門という通称から考えられる人物は藤孝の岳父である光兼と、その長男であり足利義輝と共に討死した光長である。 沼田祐光 ? - 慶長17年(1612)12月28日 沼田光兼 明応5年(14…

郡が萱野で会津だ

郡宗保の養女(宗保の兄、伊丹勘左衛門の娘)は萱野弥三右衛門長政の妻となり、三男をもうける。二男は黒田家に仕えた郡正太夫慶成。長男は萱野権兵衛といい、子孫は会津保科家に仕えたという。幕末に同じ通称の人物がおり、郡姓を称した子供もいるが、さて。

兼右卿記

「兼右卿記」が『東京大学史料編纂所研究紀要』に掲載されているのを知る。活字と思われるが。(上)とあるので今年以降まだ続きが出るのだろう。 ttp://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/kiyo0018.html

皆吉続能女

有馬直純と皆吉久右衛門尉続能女の間に生まれた娘、与志子は有馬家臣・有馬(山田)長兵衛尉純親の妻となり、二男四女をもうけ、元禄九年二月四日に亡くなったという。皆吉続能女というカタリナ夫人は島津忠清の妻であったが、有馬直純の初名も偶然ながら忠…

“ひょうきん”に命がけ、戦国武将・古田織部の略系図

+―重安――――――――+―重清――――――――+―重勝――――――――――重恒 | 正重 大膳亮 | 吉左衛門 | 兵部少輔 希代丸 兵部少輔 | | | 慶長十一年 慶安元年六月十六日没 | +=重然 | 六月十六日没 享年四十六 | | | 享年四十七 妻 古田重治女 | | | 妻 石河光…

戦国セレブ夫婦 宇喜多秀家と豪姫の家臣、中村次郎兵衛

中村次郎兵衛は豪姫に付いてきたのか、それとも元から秀家の家臣だったのか。加賀藩の史料を見ると後者のようだが。 正祝――――――――――家正――――――――+=正成 肥前守 次郎兵衛 八郎兵衛| 実 岡崎右近男 刑部 | 惣右衛門 寛永十三年没 | 正保三年没 | 妻 八田…

戦国セレブ夫婦 宇喜多秀家と豪姫の娘、理松院(下)

寡婦となった理松院は伯父利長のいる越中高岡へと帰る。慶長十八年、今度は富田重家に嫁ぐが、二年後の元和元年十月八日に理松院は亡くなってしまう。享年不明。重家との間に子はおらず、また重家も三年後の元和四年八月二十七日に亡くなったため、重政の跡…

戦国セレブ夫婦 宇喜多秀家と豪姫の娘、理松院(上)

宇喜多秀家と豪姫の娘、理松院(実名不詳のため法号で呼ぶ)は伯父である前田利長の養女となり、山崎長郷に嫁いだ。そして長郷との間に狗丸という男子をもうけるが、夫長郷は慶長十六年四月九日に亡くなり、また狗丸も早世したという。 長時――――――――――長之――…

『熊本史学』目次

ttp://ci.nii.ac.jp/vol_issue/nels/AN00066458_ja.html なぜか14号だけ抜けているが。