中院通勝と伊与局

女官の伊与局との不義で勅勘を蒙った中院通勝は天正8年6月18日、出奔して丹後の細川藤孝を頼った。さて、常識的に考えれば一方の伊与局も宮中に残ることは難しかったであろう。縁者などを頼って宮中を離れたものと推測される。伊与局はどこへ行ったのか? おそらくは中院通勝と同じ丹後であった。すべてをつなぐのは「長岡越中守妻官女<いと、元禁中ニテ伊与局、外記道白女>」という『言経卿記』の記述である。外記道白とは清原枝賢のこと。清原枝賢の娘、清原いと。清原マリアと言ったほうが分かりやすいか。「元禁中ニテ伊与局」とあることから、“清原いと”こそが中院通勝との不義があった伊与局であると考えられる。ゆえに伊与局も「いとのつぼね」と読むのが正しいか。

清原宣賢―+―清原業賢―――清原枝賢―――清原いと
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     +―女子
        ‖
       三淵晴員―――細川藤孝―――細川忠興

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