矢沢綱頼

以前、矢沢頼康について書いたので今度は父親の方を。
『別冊歴史読本 闘将幸村と真田一族』を見ると矢沢綱頼が「頼綱と名乗るのは、武田勝頼より一字をもらった、天正四年(一五七六)十一月からである」と書いてある。綱頼と署名した唯一の書状といわれるのは天正三年三月二十八日付け良泉寺宛て寄進状である。これに関しては良泉寺のサイトでハッキリと確認することができる。
http://www.ryosenji.com/history.html
また、上田市の瀧水寺所蔵、天正八年十二月晦日の諏訪社棟札銘に「矢澤薩摩守滋野綱頼」とあるという。これに従えば天正四年改名説は事実に反することとなる。
では頼綱と署名したものが無いかというと、それも存在しており、二月二十八日付け小菅(刑部少輔)宛て書状に「矢薩 頼綱」と書いている。栗原修「戦国大名武田氏の上野支配と真田昌幸」(『武田氏研究』第18号、1997年)ではこの書状を天正八年のものとするが、そうなると諏訪社棟札銘はなぜ「綱頼」なのかという疑問が湧く。
棟札銘の日付もしくは名前が違うのか。それとも書状の年代比定が違うのか。分からぬまま終了。