西園寺随宜は西園寺公宣なのか?

西園寺家譜』をもとに系図を書くと下記のようになる。

  実晴――――――――+―公満――――――――――実尚
   寛文十三年    |  慶安四年        実良
   正月十一日没   |  七月二十日没      万治三年
   享年七十三    |  享年二十九       十二月二十九日没
            |  母 細川忠隆女     享年十六
            |              母 松平康重女
            +―公遂
            |  延宝六年
            |  八月十日没
            |  享年十六
            |  母 家女房
            |
            +―公宣
               寛文九年
               九月七日没
               享年五
               母 家女房

年齢を計算すると、公遂・公宣兄弟と公満では約40歳離れていることになる。『諸家伝』や『公卿諸家系図』は公遂を実晴の孫とする。確かにありえる説ではある。しかし長男の公満、そして孫の実尚も実晴より先に亡くなっているのを考慮する必要もある。公遂と公宣は実尚の死後に生まれているからである。一方で、『肥後国誌』によると西園寺随宜は実晴の末男で、母は細川忠隆女。寛文十年八月十五日に亡くなったという。公宣と同一人物であるとすると『西園寺家譜』などの記載は生没年も母親も間違っていると考えるしかないが、上記の史料が悉く誤記しているというのも考えにくい。であれば、系図類に載っていない、公満の同母弟が存在したと結論付けるしかない。