『系譜伝承論』の内容に対して幾つか

  • 『尋憲記』天正二年三月二十四日「信長ハ近江殿」

「近衛殿」か「近江殿」か、どなたか国立公文書館で現物を確認してください。

  • 『万松院殿穴太記』の著者は六角義秀(徳川公)

小野泰央「『万松院殿穴太記』の生成 ―『太平記』・『万松院贈左府を悼める辞』との関係を中心にして―」『東洋文化』第323号 2002年 に別人説あり。

  • 武衛侍従=左衛門侍従義康=六角義郷
    • 『宗及自会記』天正十三年正月十日:三松 ぶえい
    • 『兼見卿記』天正十三年十月六日:武衛侍従
    • 聚楽行幸記』天正十六年四月十五日:左衛門侍従豊臣義康
    • 『伊達家文書』(天正十六年)九月八日:義近

武衛侍従は左衛門侍従豊臣義康と同一人物であるという。しかし『兼見卿記』天正十二年三月九日に武衛舎弟が登場し、伊勢国司の三介の名前があることから、武衛舎弟は義近の弟、津川義冬を指すことが分かる。個人の日記で同じ「武衛」という言葉をわざわざ使い分けするだろうか。また『時慶記』天正十五年九月十七日にも「武衛 ケン友」とある。ケン友は義近の弟、蜂屋謙入としか考えられず、武衛は斯波氏を指すことが分かる。『系譜伝承論』を読む限り、六角氏に関しては「同時代の史料」に左記のような明確な事例が見当たらない。

別人であることは 北堀光信「『聚楽行幸記』の御虎侍従について」『戦国史研究』第41号 2001年 を参照。