木下吉隆

木下吉隆は秀吉の側近である。称名寺教宗の末男で、性宗の弟という。通称は半介。文禄二(1593)年十月三日、従五位下大膳大夫に叙任される。妻は西尾光教の娘。秀次に連座して薩摩へ流罪となり、慶長三(1598)年三月二十七日、自害したという。『東浅井郡誌』によると「男子なし。大谷吉継の次子吉種を養うて嗣となし」とあるが、『寛政譜』によると吉隆の男子三人が吉隆の死後に西尾光教の養子となっている。木下頼継は断絶した吉隆の名跡を継いだものか。頼の字は秀頼からの一字拝領と推測され、秀吉死後の取り立てが考えられる。頼継は大谷吉継の二男とも弟とも甥ともあり、関係は定かではない。