可児才蔵

最近は『センゴク』でも活躍中の可児才蔵。没年は慶長十八(1613)年で享年六十というのは合っているようだが、没月日は記録によって異なり、『翁草』は愛宕権現の縁日である六月二十四日に亡くなったとする。一方、広島の才蔵寺の碑によると十一月二十四日没という。「六」の崩し字は「十一」と読めないこともなく、逆に「十一」と書いてあったのを「六」と誤読したのかもしれない。才蔵の一族を分かるだけ記してみる。弟の可児作兵衛(内記、半兵衛)は戸沢政盛に召し抱えられ、子孫は新庄藩士になった。可児政三(又兵衛、十兵衛)は才蔵の子というが詳細不明。子孫は久留米藩士。同家の系図によると才蔵は朝倉義景の子であるという。可児正栄(長右衛門)は才蔵の子で、徳川頼宣に召し抱えられ、寛文四(1664)年閏五月十七日没。子孫は和歌山藩士。可児長景(左門、才蔵)は山岡景宗の子(山岡景隆の孫と書いた方が分かりやすいか)で、才蔵の養子となる。それ以外は不明。才蔵の日記といわれる『誓文日記』は才蔵の孫という京の医師友庵が持ち主であったというが血縁は不明。