『愛知県史 資料編12 織豊2』雑感

『愛知県史 資料編12 織豊2』を読んで気になったことを。

『兼見卿記』に毛利秀頼息の生年の分かる記事がある。天正十年当時、秀頼には十三歳と二歳の息子がいた。文祿二年閏九月十七日、秀頼が五十三歳で亡くなると、遺領十万石のうち九万石は秀頼女婿の京極高知、残り一万石を秀頼息の秀秋が継いだ。文祿二年当時、二人の息子は二十四歳と十三歳になっているはず。前者であれば京極高知より年上であるから、このような扱いは考えにくい(もちろん、京極竜子の影響というのは考えられるが)。後者であればありえないことではない。と、思っていたが「土屋知貞私記」によると大坂の陣のとき(毛利秀秋のこととされる)羽柴河内は歳五十計とある。歳五十計にふさわしいのは前者である。「伊東家譜」によると伊東長実の娘が毛利河内守秀頼の妻とあるが、秀頼は長実より一回り以上年上であることから、秀頼ではなく秀秋の誤記ではないかと考える。長実の年齢を考慮すると女婿としては後者の息子が釣り合いそうである。

木下勘解由は池田恒興父子や森長可らと共に天正十二年四月九日の長久手の戦いで討死したとされる(736)。木下勘解由が討死したことは九月廿三日付けの秀吉が秀次へ宛てた叱責の文章の中で語られていることから事実であろう(737)。しかし六月二日付けの陣立の中に木下勘解由の名前がある(512)。長久手の戦いではなく、六月二日から九月廿三日の間に行われた戦いで討死したものか。

石川伯耆守が「康輝」と署名している書状が二通ある(947,972)。石川伯耆守は秀吉に仕えたあと「吉輝」と称したとされるが、その可能性を高める書状である。

前田利家の家臣、奥村弥左衛門尉家延(114)は奥村永福の従兄弟(叔父孫助の子)か。