明智秀満は弥平次か左馬助か

明智左馬助の恋』という本が最近出たが、果たして明智秀満は左馬助と称していたのだろうか? 明智秀満の実名を確定させた天正九年十月六日の書状(天寧寺文書)では「弥平次」秀満と記している。では史書や軍記はどう書いているのであろうか? 手持ちの分を調べてみた。(両方書かれているものは左馬助のみ記載した)

惟任謀反記 弥平次光遠
信長公記 左馬助
川角太閤記 左馬助
信長記 左馬助
甫庵太閤記 左馬助
豊鑑 弥平次
細川忠興軍功記 左馬之助光遠
老人雑話 左馬助
備前老人雑話 弥平次
武家事紀 左馬助
明智軍記 左馬助光春
織田軍記 左馬助光昌

実名に関してはどの記録も一致しない。通称もほとんどが左馬助とする。成立年代および筆者を考慮すると「惟任謀反記」と「豊鑑」が「弥平次」と書いている点は大きい。これで「信長公記」が「左馬助」と書いていなければ。

だが、それでも秀満の通称は「弥平次」が正しいと考える。勧修寺晴豊の「日々記」は「弥平二」、山科言経の「言経卿記」および吉田兼和の「兼見卿記」は「弥平次」と記している。しかも本能寺の変以後の箇所に。明智家との関係の深い吉田兼和が「弥平次」と書いている点は重視すべきである。

秀満の通称が何であったかは年齢との兼ね合いもあると思うが、年齢に関しても諸説あり、二十代とも四十代とも言われる。ただ、四十代だとすると「弥平次」という通称は軽すぎるであろう。光秀の女婿であれば二十代が妥当ではなかろうか。光秀の女婿であれば、では光秀の年齢は?という問題が出てくるが、秀満に嫁ぐ前は荒木村次の妻であったことを考えると、釣り合うのはやはり二十代となろう。