細川忠興の官位を考える
現在でも越中褌などに名前を残す忠興の官職「越中守」であるが、いつから称したのか史料によってまちまちである。
しかしもっと早い時期から称している記録がある。大村由己の『柴田合戦記』である。この中で「長岡越中守忠興」として登場する。奥書によると「天正十一年十一月」に書かれたという。奥書が嘘でなければ、天正十一年には越中守を称していたことになる。『歴名土代』で確認できないが、『系図纂要』によると天正十一年正月、従五位下に叙位されたという。越中守を称したのはこのときか?
以下、諸史料からその後の官位を推測する。
- 天正十三年七月十一日:従四位下侍従(『歴名土代』『聚楽行幸記』『系図纂要』『藩翰譜』)
- 天正十六年四月十四日:左近衛少将(『細川家譜』『系図纂要』『藩翰譜』)
- 慶長八年二月十二日:参議(『細川家譜』『藩翰譜』)
参議任官とのとき従三位に叙位されたというが、『公卿補任』慶長九年の項目で前参議として載っている忠興の位階は従四位下である。なので、従三位参議というのは間違いであると考えられる。ただし、『歴名土代』によると忠興は叙位時期不明だが正四位下になっている。『公卿補任』の記述を信じれば正四位下叙位は慶長九年以降となろう。