藤堂高虎と横浜一庵

藤田達生『江戸時代の設計者』を読んでいたら気になる箇所があった。

しかしなかなか子供が授からず、後の慶長四年(一五九九)九月に久芳夫人と同じ但馬出身の長高連の息女・松寿夫人を側室とし、ようやく高虎四十六歳にして跡継ぎになる高次をもうけた。彼女は、慶長四年三月に死去した宮部継潤の室であったから、この輿入れは再婚だった。なお高虎は、後に松寿夫人の妹を養女として、秀長の筆頭重臣横浜一庵に嫁がせている。(p37)

とあるが、高虎が松寿夫人を側室とした後、養女を横浜一庵に嫁がせるのは不可能である。なぜなら一庵は慶長元年の大地震で亡くなっているからである。かといって慶長元年以前に嫁ぐのは話として不自然である。しかし『公室年譜略』などにも一庵に嫁いだとある。高虎より六歳年上である一庵に養女を嫁がせるというのは妙な話であり、実際は一庵の弟とも子ともいう横浜民部少輔正行に嫁いだのではないかと考えるのだが、史料の裏付けができないので置いておく。