長束正家の子孫

慶長五年九月三十日、長束正家は日野で自害する。享年三十九。水口落城のとき、臨月であった正家の妻、栄照院(本多忠勝の妹)は落ち延びて一男を産むが、産後の肥立ちが悪く、まもなく亡くなってしまう。享年三十六。遺児は家臣山本浅右衛門によって育てられた。のち水口大徳寺二世岌誉和尚の弟子となり、岌閑と名乗る。寛永二年、水口大徳寺三世となる。承応元年、水口真福寺に入り、寺を再興する。明暦三年二月十五日寂。享年五十八。本多忠勝の妹ならば享年三十六なんてありえないのでは?という疑問はさておき。
また正家の娘は青山宗勝の長男、正次の妻となっている。

おまけ

         長束正家―――田中半左衛門
                 ‖
  細川藤孝―――女子      ‖―――――女子
          ‖―――+―女子     ↓
+―塩川主膳   吉田兼治 |        ↓
|             +=女子←←←←←←
+―女子             ‖
   ‖―――――荒木村勝―――荒木克之
  荒木村重

おまけ2

家所帯刀

忍城攻めに従軍。正家の陣代として伏見城を攻める。

臼杵平四郎

忍城攻めに従軍。

一宮善兵衛

忍城攻めに従軍。

有坂宮内

忍城攻めに従軍。

増田新次郎

忍城攻めに従軍。

伴五兵衛

武士奉行として伏見城を攻める。

松田秀宣

金七郎。蒲生氏郷旧臣。昔、町人と争いになり危うくやられそうになったことを恥じて「天下無双のひけ者」(“ひけ”とは武士として恥辱があることの意)と書いた旗を背に差していた。関ヶ原から水口へ退却する途中、追っ手を食い止めて正家が逃れる時間を稼ぐ。奮戦の末、秀宣は討死した。

奥村左馬助

幼少の頃より正家に仕える。水口城を囲んだ池田長吉・亀井茲矩への使者となり、切腹の準備をするため少々時間が必要であることを伝え、了承される。正家は池田・亀井両人に「左馬助は殉死する覚悟があるように見えるが、無益なことなのでとめてほしい」と遺言していたが、正家の言葉通り、左馬助は正家を介錯すると自害しようとした。しかし池田・亀井の家臣に刀を奪われ、主君の遺言に背くことは不忠であると説得されたため、自害するのを止めた。のち寺沢広高に千石で召し抱えられたという。

西川兵庫

奥村左馬助と共に使者を務める。正家切腹の際に形見を与えられる。

小西治右衛門

正家切腹の際に形見を与えられる。

長束与十郎

正家切腹の際に形見を与えられる。

伴藤三郎

『北野社家日記』に「長束殿衆」とある。

山中三十郎

『北野社家日記』に「長束大蔵殿息のおとな」とある。

古高正永

中書、忠左衛門。正家に仕えた後、大垣戸田家に仕える。(坂本博司「三入宛書状の研究 五 ―戸田氏鉄とその息子たちの場合―」『宇治市歴史資料館年報』2001 2002年)