左衛門侍従豊臣義康

天正十二年四月七日、秀吉は伊勢松ヶ島城の守備を八重羽左衛門尉他二人に命じる。八重羽左衛門尉は「顕如上人貝塚御座所日記」天正十三年五月二十日によると「武衛ノ舎弟」。天正十五年三月一日、秀吉は九州へと出陣する。『當代記』によると前備に羽柴河内侍従・蜂屋大膳大夫と並んで羽柴左衛門侍従がいる。天正十五年五月に書かれたとされる「聚楽行幸記」に左衛門侍従豊臣義康とある。何を言いたいのかというと、豊臣義康の正体は里見義康でも最上義康でも斯波義康(義近)でも、近年提唱されている六角義康でもなく、秀吉の近臣で斯波義近の弟であった八重羽左衛門尉ではないかということ。単なる思い付きなので詳細は詰めない。